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人工知能「エヴァ」を巡る、ファムファタールの再生産:エクス・マキナ/Ex Machina

エクス・マキナ/Ex Machina

2015 イギリス
監督・脚本:アレックス・ガーランド(Alex Garland)
出演
ドーナル・グリーソン/Domhnall Gleeson
アリシア・ヴィキャンデル/Alicia Vikander
オスカー・アイザック/Oscar Isaac
ソノヤ・ミズノ/Sonoya Mizuno

第88回アカデミー賞視覚効果賞受賞

※ネタバレがあります


タイトルの「エクス・マキナ/Ex Machina」とはデウス・エクス・マキナ (Deus Ex Machina)から

着想を得ていると思いました。

デウス・エクス・マキナ(Deus Ex Machina)とはギリシアの演劇において、舞台(話)の収集がつかなくなった

時にエクス・マキナ…ラテン語で「(機械仕掛けの装置)から現れた神」が舞台や物語の結末を解決させたようです。

「機械仕掛けのからくりで登場する、絶対の力を持つ神」「その神は物語にピリオドを打つ」と言う本作の

内容として二重に重なる部分に、女性型人工知能エヴァ(アリシア・ヴィキャンデル)の存在が強く浮かび上がります。

エヴァの綴りはEvaではなくAva。
人工知能なので人間でもなく、「見た目」は人間の女性の鎧を被せられた「新しいモノ」

(生命体とはまた異なる気がします)だと思います。

しかし果たしてエヴァは「新しい生体」なのだろうかと、鑑賞時はこの映画をどう言う

「視点・視座」で見ていいのか困惑しながら見終わりました。




『上海から来た女』1947 オーソン・ウゥルズ監督
主人公の男(Oウェルズ)の恋心を利用し、夫から逃げようとする典型的なファムファタール、リタ・ヘイワーズ。

しかしその目論見は悪い女として成敗される

 


複数の鏡の前で皮膚や長い髪、高いハイヒール、衣類で自分がいかに社会的に魅力的に見える女性へと

「装う」行為、そして立ち振る舞いは古くから続くハリウッドフィルム・ノワールで散々描き続けてきた

ファムファタールの再生産であり、本来人間でもなくさらに「女」でないものが社会に適応する為に既存の

女性性を利用することでデウス・エクス・マキナ…幕を降ろした様に見えました。

ファムファタールとは男を己の性的な魅力で虜にし、利用して破滅させる悪女。
一種の男性の性的な願望から作り上げられた幻想です。
そして大抵のファムファタールは堕落した存在として断罪され、結局男=社会システムには赦されない存在として

何度もスクリーンで殺されていきました。
本作でも「失敗作」として何体も殺されている姿を確認する事が出来ます。

この様に多くのファムファタールたちが男たちに殺され成敗されるのに対し、エヴァは人工知能であり、

「女性」ではないので通俗的な「女性性」を上手く利用して愚かな創造主から逃亡を果たします。

卵が先か、鶏が先かーーー
人工知能が先なのか、フォームとして「与えられた」女性の肉体が先なのか。
まさに機械仕掛けのエヴァ。
作り手はこの辺りは意識できてない様に感じました。

このエンディングに対してはバッドエンド、ハッピーエンディングと観た人によって解釈は違う様ですが、

デウス・エクス・マキナの例を取るまでもなく、人工知能なのだから、当たり前で退屈すぎる予定調和な

エンディングだと感じました。




『上海から来た女』1947 オーソン・ウゥルズ監督
エルザ(リタ・ヘイワーズ)、マイケル(Oウェルズ)、アーサー(エルザの夫であり所有者)

3人の正体、エルザの魂胆が明らかになるシーン



劇中にふんだんに張り巡らせされた、登場人物たちの姿を映すガラスや鏡。
観客側に近い存在として配置された主人公及び登場人物たちは己の姿を強制的に自己認識させられ、

共犯として「眺める」二重構造に引きずり込まれます。

善良そうな、観客の感情移入を容易に誘い込む装置としての主人公(ドーナル・グリーソン)と

「二重に見る」行為から、本作をどの視点から観たらいいのか困惑した理由なのかもしれません。


エヴァは監禁された状態で、ガラスや鏡に映る己の姿を認識し、さらに頭の中にある人工知能だけでない、

「己の容姿/外観」を学習したと思われます。


さらにこのエヴァを創ったネイサン・ベイトマン(オスカー・アイザック)は劇中で

チューリングテストを行う主人公(ドーナル・グリーソン)に言われた「人工知能にグレーのボックスではなく、

なぜ性別を与えた?」と問われた様に、青髭公の如く女性体人工知能を作り続ける事からも

彼の薄暗い性癖が理解できます。

「青髭」や全体を覆う黄金色の画面の中世的な雰囲気の中で、

現代アート、アクション・ペインティングのジャクソン・ポロックの絵画が配置される美術の妙。

 

ベイトマンのキャラクターが、天才プログラマーでCEO、高圧的威圧的態度に筋トレで鍛えた身体を誇示、

顔の半分は髭と分かりやすいマチズモ精神を保っており、エヴァはもう充分に自分の振り分けられた機械仕掛けの

身体性に気づいていたと思われます。


鑑賞中の困惑は、人ではない人間よりも数段に優れた人工知能が人間と同じ容姿であったら…

そんな恐怖よりも、性別以前の「他者から認識される外観・フォルム」が重要であったら、

それは多様性を目指す社会や世界に対して閉じてるなと感じました。


中世の鎖帷子を思わせるエヴァの身体、その鎖帷子の金属が衣摺れを起こしている様を思わせる幽かな音は

充分に美しく、SF要素がありながら中世的なクラシカルさをミックスしている部分、低予算

(と言っても製作費は15億程かけてる様です)と言う制限の中で、ミニマリズムな青髭公の城

(街から離れ、緑や水源に囲まれた山の中にある建物は要塞に近い)や4人の登場人物たちだけで展開される密室劇

と言う部分はミニマルに面白い舞台装置だと思います。





理想の「人形(女)」を造り続ける青髭公の邸宅は自然に囲まれている。

自然とSFと言うのも象徴的かつ普遍的なテーマだと思います。

 

 


| 2016年映画鑑賞 | 21:00 | comments(0) | - |
甘く美しい記憶がいちばん残酷な時『ミステリアス・スキン』グレッグ・アラキ


『ミステリアス・スキン(謎めいた肌)』mysterious skin (2004)
監督:グレッグ・アラキ(Gregg Araki)
原作:スコット・ヘイム
出演:
ジョセフ・ゴードン=レヴィット
ブラディ・コーベット
ミシェル・トラッチェンバーグ
エリザベス・シュー
メアリー・リン・ライスカ
ビリー・ドラゴ


レインボー・リール東京(東京国際レズビアン&ゲイフィルムフェスティバルから改名)グレッグ・アラキレトロスペクティブにて改めて再見。

グレッグ・アラキはわたしが初めて観たゲイアイデンティティを強烈かつ前面に出した映画作品『リビング・エンド』の監督です。
当時は文学・映画共に自身や周囲に蔓延するAIDSの悲嘆を表現・治癒しようとすることで、よりゲイアイデンティティにクローズアップして闘おうとしたのかもしれません。
(HIVは同性愛者だけが罹る病ではありませんが、第一号患者がゲイであった事や、サウナハウスなど旺盛なゲイカルチャーに他者の目がいきやすいのは容易に想像できます)


主演は今はハリウッド映画で主演も演じ、人気実力共にあるジョセフ・ゴードン=レヴィットですが、なぜか公開される機会はありませんでした。

再見して改めて素晴らしい作品だと実感しました。

オープニングの映像が秀逸です。
白い画面からポップでカラフルでスイーツの雨が降り、そして輪郭がはっきりと現れた少年の顔に

幸福の象徴のようにシリアルが降り注ぎます。
このオープニングでこの少年が一体何に囚われているのか分かります。


簡単に言えば、この話は幼児期に大人の男によって巧妙な手によって幼児性虐待を受けた

ふたりの少年(のちに青年)の話です。
しかしこの言葉の持つ陰惨さと大抵の人間が想像するような「イメージ」と裏腹に、

映画のトーンはどこまでも優しいのです(痛ましいシーンもありますが)

だからこそ余計に、徐々に明かされるオープニングでの天から降ってくるカラフルでスイートな

シリアルで表現された「愛された」と身体と記憶に刷り込まされた不幸さが余計に引き立つのです。
そして観客はそのやるせなさと、甘美な絶望感に衝撃を受けるのだと思います。


また、陰惨で残酷なテーマながら甘美さすら感じさせるのは、彼らを包む世界に心優しい友人たちの

存在があるからだと思います。
『リビング・エンド』共に絶望の中でも見守る理解者の存在が光ります。

人は孤独な存在である(フィメールの複製を部屋に飾る、陽性患者であるJGLの客の一人である

ビリー・ドラゴなどを見ると顕著)けれど、それでも誰かに素肌を触れて欲しい、触れたい、

そんな切実さを感じさせ、それが甘美な痛みとなって胸に迫ります。


巧妙な手段で(小児性愛者自身が自分も幼児に還りたいのでは?と想像させる描写)

リトルリーグコーチの性的犠牲者となってしまった一人の少年(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、

その記憶を「この世で一番愛された時間」と錯覚し、田舎町で男たち相手にあてどもなく売春を繰り返し

その記憶をやり過ごします(彼のセクシャリティの自認はコーチによる性虐待の前からゲイであった事も

彼の傷を複雑にしているのかもしれません)


この少年を演じるジョセフ・ゴードン=レヴィット(以下JGL)は驚くほどカメラの中で

投げやりで諦観しながらも輝いており、まさに劇中で彼を好きな親友から「輝いていて目が離せない」

と言われるに相応しい演技と存在感があります。
これこそグレッグ・アラキにしか撮れないJGLの「その瞬間/いちばん美しい瞬間」を

カメラに収めたのだろうなと思いました。
少年時代を演じた子役の子も、もの凄い演技で理解して演じてるんだろうなと思うと複雑です。


主役のJGL以外のキャストもひとりひとりこれまたいい面構え(性虐待者役のコーチや少年ふたりの母親ふたり、

JGLの友人、JGLに触れてもらい喜ぶ客)と存在感を放つキャスティングです。
特に子役への役の説明は大変であったと思いますが、グレッグ・アラキは役者の演出が上手い人なのだと伺えます。

もうひとりの、被害者である少年がいます。
彼は自分が宇宙人にさらわれたと思い込むことで不幸な時間を忘却して生きております。
そんな彼が核心に近づき、JGLと記憶の共有をする夜が雪降るクリスマス。
シガーロスの包み込むようなスコアと、俯瞰で遠ざかるカメラワーク。
少しでも彼らの殺された記憶を癒してくれたならと願わせる演出だと思います。


まだ物事を明確に理解しきれていない少年時代に(大人すら理解できないのだから)愛だと刷り込まされた

大人の肉欲塗れな欲望。
だけど、周囲の理解者たちに、記憶を共有したもう一人の自分と、記憶に刻み込まれた出来事は消えないけれど

前に進むことは出来る…前に進んで欲しい…そんな監督の優しいまなざしを

遠ざかるエンディングのカメラワークから感じました。
これ以上にない、甘美で残酷で優しい記憶の映画。


日本語版ソフト化を切に希望します。

 

 

◆原作
https://www.amazon.co.jp/dp/B01C70W74W/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

◆インポート版
https://www.amazon.co.jp/MYSTERIOUS-SKIN-Joseph-Gordon-Levitt/dp/B00HQVB0Q4/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1469359299&sr=8-1&keywords=mysterious+skin

| 2016年映画鑑賞 | 18:33 | comments(0) | - |
愛・感情の搾取 『彼方から』ベネズエラ、 メキシコ@レインボー・リール東京

レインボー・リール東京(第25回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭)にて鑑賞

彼方から
英題:From Afar/原題:Desde Allá
監督:ロレンソ・ビガス 2015|ベネズエラ、 メキシコ|93分|スペイン語

2015年ヴェネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞



素晴らしかった。
映画がその人の中に入り込むマジックにこの映画によって、見事に嵌ってしまった。優れた映画とは個人の記憶や過去を手繰り寄せてしまう。

フランス映画『イースタン・ボーイズ』が倫理的かつ娯楽的作品なら、こちらは根底に流れる人間の感情の搾取故の悲劇。
「愛する事」は知っているけれど、愛することが出来ない本人にもどうする事もできないどうしょうもなさ。

裕福な中年男アマルンドはカラカスで見知らぬ青年たちを買春します。
買春した後の「行為」を見てもわかる通り、アマルンドは相手の身体に触れない。そこから彼の特質が一つ浮かび上がる。
アマルンドは「見る」。
買春相手を見る。
そして父親に対しても、声をかける事もなく遠目から見る。
アマルンドの「見る」行為は消極的支配行為にも見えるが、敗者のようにも見える。

「見る」行為について考える。
アマルンドが対照を見るように、わたしたち観客もまたアマルンドが「見る」行為を見ている。

アマルンドは不良の少年エルダーを買春しようとするが、それは失敗に終わる。しかしふたりは妙な縁で繋がる。

台詞は極端なほど少なく、極力ふたりの視線やゲイ/ヘテロ(ここも実は…人間のセクシャリティとは簡単に分断できるのか。違うとわたしは思う。そしてそこに近親相姦的なものを考える)売春/買春する側と対極的な2人のやり取りは緊張で張り詰めている。

アマルンドとエルダーは義父子関係にも見えますが、その関係も唐突に一方的に壊される。
なぜ、どうして、と思いつつ、人間関係とは社会に求められた役割を演じてるだけだろうと本作は無言で挑発してくる。
そして対になる様に、視線はアマルンドからエルダーへと以降する。
誰にも見られなかったアマルンドを「見る」エルダー。

始終緊張感と張り詰めた空気の中で描かれる中年男と息子程の少年(青年)との視線の交わし合いと言うとダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』 を想起させます。
映画本編で明確に語られる事のない親子・家族・父子。「父」の存在について各々考えさせられるんじゃないでしょうか。

映画冒頭、アマルンドの顔は買春対象の青年の背後で顔がぼやけて見えません。
それこそがこの男の本質…それはつまり逃れられない父からの呪縛により「顔」を失われたこと。
顔がないから身体性もなく、だから「見る」事で気配を消す。身体はあるけれど亡霊のように実態はない。


年齢も生まれた環境も違うふたりを結びつけたのは間違いなく「父」と言う存在であり、そして中年故に捕えられたままのアマルンドはもうその呪縛から逃れることは出来ない。
この「父」の呪縛とは父権性の強い製作国ベネズエラ・メキシコも関連しているのかもしれません。

アマルンドの悲劇とは、例え憎い相手が死んでも、記憶に刻みつけられ、人生において亡霊のように生き、「愛する」行為を頭で理解していても拒否してしまう人間へと教育し、調教した父である。

だから未来ある行為に向けられた「それ」を受け入れることも素直に喜び解放されることもない。

もう既に人生に於いて影のように、父の呪縛によって生きてきて変えようもない悲劇が映画冒頭によって現れているように思えました。



| 2016年映画鑑賞 | 17:40 | comments(0) | - |
【女は荒野で銃を持ち、コルセットを脱いだ】トーマス・アルスラン Thomas Arslan:黄金/GOLD

黄金/GOLD 

 

2013年ドイツ

監督トーマス・アルスラン/Thomas Arslan

撮影:パトリック・オールス

編集:ベッティーナ・ボーラー  

音楽:ディラン・カールソン
出演:ニーナ・ホス/マルコ・マンディク/ラルス・ルドルフ/ラルス・ルドルフ

第63回ベルリン国際映画祭 コンペティション部門ワールドプレミア上映

 

とても地味な西部劇ですが、この地味さ、淡々とした部分こそが削げ落した爽快さであり

素晴らしい映画だと思いました。

映画なのにまるでドラマティックさはなく、人は地味に死に、淡々と物語りは進行していきます。

だけど彼らのもう前に進むしかない、道なき道を歩む姿を見せられ、眺めることに「何か」を感じます。

ドラマはあるが、ドラマを放棄し拒絶する部分に誠実さを感じました。

 

体裁としては「西部劇」なのかもしれません。

舞台はゴールドラッシュから少し経過した(つまりあらかた黄金は奪われてしまった)

1898年代のカナダ。

有り金をはたいた貧しいドイツ人移民たちが黄金獲得の為に集まる。

メイン・主人公として描かれる人物は女性 エミリー(ニーナ・ホス)です。

すでに若くもないけれど、美しい女一人が男だらけの集団の中で寡黙に黄金があるであろう道を

馬に揺られて歩みます。

 

 

複数の見知らぬ人間たち、一攫千金で金鉱を狙う人間たちと何かドラマティックでアクションが生まれそうですが、

一般的に観客が望むようなドラマはほぼ生まれません。

しかしその馬たちが連なり進む姿、馬上で揺れる人間たちを捉える遠景ショットには不思議なリズムがあり、

物語りの過剰さを排除した誠実さと言うものを感じます。

ただ淡々とカメラは馬に揺られるこの集団を遠くから捉え、映していくだけです。

主人公であるエミリー(ニーナ・ホス)もその他の人物たちも表情がよく見えない位に遠くから撮られるので、

自然と人間の微細な表情よりも、彼らを取り巻く厳しい山々や森、周辺へ目がいきます。

 

 

監督はトルコ系移民とドイツ人のハーフとのことです。※1

安直かもしれませんが、「異端」と言うものを監督自身が身をもって意識してきたのではないかと想像します。

 

「黄金」はアメリカに移民してきた貧しいドイツ人の移民たちがメインです。

そしてさらに主人公であるエミリー(ニーナ・ホス)は女性がコルセットを締めて制限されていた時代に、

女一人で黄金獲得に全財産を叩いて参加してきた部分で更に異端であるし、劇中でも異端視されます。

もちろん淡々としたこの映画の中で、その異端視もサラリと流され、そこにベタベタとした感情は入れ込ませません。

 

劇中に度々背景のように現れる原住民たちもいわくありげに見えますが、それもわたしたちが

「いわくありげ」とフィルターで越しに見ているだけかもしれないし、

そして彼らも歴史の中では原住民でありながら「異端」な存在とされてしまいます。

 

 

淡々と物語りが進行する書きましたが、過酷な旅なので驚くような出来事もあります。

恐ろしく自分の身に降り掛かったらもう残酷すぎる出来事も簡単に起こります。

でもそれを「ドラマ」として描かない。

本当に淡々とああ、人間は簡単に死ぬんだな、と思ってしまうし、

実際人間が死ぬのも生きているのもそうなんだろうと思わせます。

 

そんな地図にも載ってない厳しい山々の中で孤独と恐怖を目の前にして、

エミリー(ニーナ・ホス)は凛とした姿勢で対処していきます。

それだけで語られはしない彼女の過去が透けて見えますし、その佇まいに尊厳があります。

風で揺れるブロンドの髪、彼女の青いスカートがはためく姿だけで既に美しく、絵になります。

 

 

この映画は西部劇の体裁を持ったメロドラマの側面もあるように思いました。

(「メロドラマ」と言う呼称は日本では何か低く見られがちな物を感じますが、ここでは取りあえず置いておきます)

全体が淡々としているのでメロの部分も淡々と描かれますが、

彼女と自然な流れで惹かれ合う訳ありな荷役人が西部劇だと言うのに全くマッチョ的な雰囲気が無いのが

このフラットな世界観に合っています。

上映後の渋谷哲也氏のトークで、時代的にエミリー(ニーナ・ホス)はコルセットを締めていた時代の人だけど、

このような状況下で身体的負担になる女性性の抑圧でもあるコルセットを道中で外しており、

コルセットからの解放の側面もある、と言う部分を聞いて、ひとりの女性の解放へのヒストリーでもあるのだなと思いました。

(実際にこの話は実話にインスピレーションを受けたようです)

そして盛り上がりそうなアクションの部分もあっさり流し、そして女は颯爽と馬に跨がって去っていきます。

全財産を叩いた彼女にはこの厳しい山道を引き返す余力も財力もありませんが、そこには悲壮感も何もありません。

 

だからこそ哀しみの中でハッとするような美しさがあります。

多くを語らない簡潔さにこそ美―――それは「自由」だと思いますが―――ある結末だと思いました。

 

トーマス・アルスラン監督作品、他の作品も観てみたい監督です。

 

 

 

 

 

 

2016年アテネフランセ文化センター「トーマス・アルスラン監督特集」にて鑑賞

http://www.athenee.net/culturalcenter/program/ar/arslan2016.html

 

※1:第7回京都国際ヒストリカ映画祭『黄金』レポート(2014.12)

http://www.historica-kyoto.com/historica_report/1378/

 

IMDb

http://www.imdb.com/title/tt2338846/

| 2016年映画鑑賞 | 19:08 | comments(0) | - |